LOGIN退勤後、駅とは反対方向に歩いた。
いつもなら、最短の道を選ぶ。 早く帰って、夕飯を作って、洗濯物を畳んで、お風呂を沸かして。 その順番が、体に染みついていた。 でも今日は、曲がり角をひとつ違う方へ曲がった。 それだけで、知らない街みたいに見えた。 古い文房具店の前を通る。 小さな花屋の店先に、名前の知らない白い花が並んでいる。 喫茶店の窓から、オレンジ色の灯りがこぼれている。 私は歩く速度を少し落とした。 急がなくてもいい。 誰かの夕飯に間に合わせなくてもいい。 そう思った途端、胸の奥が少し軽くなる。 同時に、少しだけ罪悪感も顔を出した。工房の販売会の案内を見つけてから、私は何度かスマホの写真を開いた。 最寄り駅。 地図。 開催時間。 作家さんの名前。 写真展示協力として小さく書かれた、朝倉さんの名前。 その全部を、もう何度も確認している。 それでも、見るたびに少し胸が鳴った。 展示とは違う。 書店の二階ではない。 いつもの帰り道でもない。 電車に乗って、知らない駅で降りて、工房まで歩く。 それはほんの小さな外出のはずなのに、私には少し遠く感じられた。 以前の私なら、たぶん行かなかった。 気になると思っても、詳しくないし、一人で行くのは緊張するし、何も買わなかったら申し訳ないし、と理由を並べてやめていたと思う。 でも今は違う。 緊張しても、行ってみたい。 詳しくなくても、見てみたい。 何かを買うかどうかは、行ってから考えればいい。 そう思える自分がいた。◇◇◇◇ 土曜日に行くと決めてから、私は少しずつ準備をした。 といっても、大げさなことではない。 電車の時間を調べる。 駅から工房までの道を確認する。 財布に少し多めに現金を入れる。 エコバッグをひとつ畳んでおく。 それだけ。 でも、その一つ一つが、私を少しずつ工房へ向かわせているようだった。 金曜日の夜、私は丸いテーブルに座って、スマホの地図を見ていた。 水色の花瓶は窓辺にある。 クラゲも、いつもの場所で揺れている。 食器棚には、青みのある深皿。 その器があるから、私は工房へ行ってみたいと思っている。 作った人の場所。 器が生まれる場所。 そこに置かれる朝倉さんの写真。 考えるだけで、少しそわそわした。 私はノートを開いた。『明
それから数日後、書店の掲示板に新しい案内が貼られていた。 仕事帰りに前を通った私は、ほとんど癖のように掲示板へ目を向けた。 児童書フェア。 読書会。 手作り市。 その下に、見慣れない薄い生成り色の紙がある。『小さな器の販売会』 その文字を見た瞬間、足が止まった。 会場は、電車で少し行った場所にある工房。 開催日は来週の土日。 作家さんの名前。 そして小さく、写真展示協力として朝倉蓮の名前があった。 胸が静かに鳴る。 ついに案内が出た。 私は紙に書かれた地図をじっと見た。 知らない駅。 知らない道。 この書店の二階とは違う場所。 少し遠い。 少し緊張する。 でも、行ってみたい。 その気持ちは、前よりはっきりしていた。 私はスマホを取り出し、案内の写真を撮った。 すぐに誰かへ送ろうとして、手を止める。 まず、自分で予定を見よう。 来週の土曜日。 午後なら行ける。 日曜は洗濯と買い物をしたい。 土曜の午前に家のことを済ませて、午後に工房へ行く。 そう考えると、少し現実味が増した。 私はカレンダーを開き、小さく入力した。『器の販売会』 保存する。 それだけで、胸の奥に小さな灯りがともった。◇◇◇◇ 部屋に帰ってから、私は改めて案内の写真を見た。 工房の最寄り駅。 徒歩十分。 住宅街の中にある小さな場所らしい。 販売会といっても、大きなイベントではなさそうだった。 少し不安になる。 一人で行って浮かないだろうか。 詳しくないのに見てもいいのだろうか。 何も買わなかったら悪いだろうか。
展示が終わった翌週、私は仕事帰りに書店の前で足を止めた。 掲示板から、『小さな器と暮らしの写真展』のチラシは外されていた。 そこにあったはずの白い紙。 器の写真。 朝倉さんの名前。 それらがなくなった掲示板は、少しだけ広く見えた。 代わりに貼られているのは、児童書フェアの案内と、地域の読書会の告知。 手作り市の日程。 知らない町の知らない予定。 展示が終わったことは分かっていた。 それでも、実際にチラシがなくなっているのを見ると、胸の奥が少しだけ寂しくなる。 でも、その寂しさは前のように空っぽではなかった。 あの展示で見た写真は、もう私の中にある。 青みのある深皿は、私の食器棚にある。 普通のヨーグルトを入れた。 ブルーベリーをのせた。 かぼちゃも、トマトのマリネも、少し濃くなった茄子の味噌炒めも入れた。 展示は終わった。 でも、そこから持ち帰ったものは、私の普通の日の中で続いている。◇◇◇◇ 店内に入ると、紙とインクの匂いがした。 入口の平台には、前とは違う本が並んでいる。 季節の料理本。 短いエッセイ。 小さな旅の本。 私は棚の間をゆっくり歩いた。 二階にはもう上がらない。 展示室は片づけられているだろう。 白い壁も、今は何も飾られていないかもしれない。 そう思うと少し寂しい。 でも同時に、次の何かを待つ場所でもあるのだと思った。 朝倉さんが言っていた。 写真は、展示が終わると箱に入って次を待つ。 本も待つ。 器も、誰かの家で使われながら時間を重ねる。 終わることは、消えることではない。 次の場所に移ることもある。 私は暮らしの棚の前で足を止めた。 器の本を
朝倉さんと並んで、『余白の席』の前に立った。 前よりも、その沈黙に慣れてきた気がする。 無理に話さなくてもいい。 沈黙が、気まずさではなく、同じものを見ている時間になる。 それが少し不思議で、心地よかった。「展示が終わったら、この写真はどうなるんですか」 私が聞くと、朝倉さんは少し考えた。「一部は作家さんの工房に飾っていただく予定です。あとは、僕の手元に戻ります」「そうなんですね」「写真は、展示が終わると少し静かになります」「静かに?」「はい。壁から外して、箱に入れて、次に出るまで待つので」 その言い方が朝倉さんらしくて、私は少し笑った。「写真も待つんですね」「待ちます」「本みたいですね」「そうかもしれません」 朝倉さんも少し笑う。 写真が箱の中で次を待つ。 器が誰かの家で使われる。 本が読まれる時間を待つ。 そう考えると、物にもそれぞれの居場所と時間があるように思えた。「作家さんの工房って、この近くなんですか?」「電車で少し行ったところです」「工房でも展示があるんですか」「時々、小さな販売会をされています。今回の写真も、その時に何枚か置いていただく予定です」「販売会」 その言葉に、少し心が動いた。 器。 工房。 写真。 今回の展示とは違う場所。 けれど、少しだけ続きのように思える。 朝倉さんは、私の反応に気づいたのか、控えめに言った。「もし興味があれば、書店に案内が出ると思います」「行ってみたいです」 思ったより自然に言えた。 朝倉さんは少しだけ驚いた顔をして、それから嬉しそうに頷いた。「作家さんも喜ぶと思います」「でも、工房って少し緊張します
展示の最終日が近づいていた。 書店の掲示板に貼られたチラシには、いつの間にか小さな紙が重ねられている。『今週末まで』 その文字を見た時、私は少しだけ足を止めた。 終わる。 当たり前のことだった。 展示はずっと続くものではない。 写真も器も、あの白い壁に置かれている時間には限りがある。 それでも、少し寂しかった。 前の写真展も終わった。 そのあとも、私の生活の中には『帰り道の灯り』が残った。 今回の展示もきっと同じだ。 終わっても、器は私の部屋にある。 青みのある深皿は、もう食器棚の白い器の隣が定位置になり始めている。 かぼちゃを入れた。 ヨーグルトを入れた。 少し濃くなった茄子の味噌炒めも入れた。 展示は終わるけれど、そこから連れて帰ったものは、私の普通の日の中に残っていく。 そう思っても、やっぱり少しだけ名残惜しい。 私は掲示板の前で、しばらくチラシを見ていた。◇◇◇◇ 昼休みに、その話を佐伯さんにすると、佐伯さんはあっさり言った。「じゃあ、最後にもう一回行けば?」「行ってもいいんでしょうか」「なんで駄目なの」「何回も行きすぎかなって」「展示って、何回行ってもいいでしょ」 言われてみれば、その通りだった。 でも私はまだ、どこかで考えてしまう。 何度も行ったら、朝倉さんに会いたいだけだと思われるのではないか。 そういう気持ちがないわけではないから、余計に足が止まる。 私が黙っていると、佐伯さんはアイスコーヒーを混ぜながら言った。「会いたいだけだったら駄目なの?」 私は少し驚いて顔を上げた。「え」「もちろん、相手に押しかけたり負担をかけたりするのは違うよ。でも、会えたら嬉しい人がいるから、その場所へ行きたいって
翌日の昼休み、私は森下さんと休憩スペースで一緒になった。 自動販売機の前で森下さんがミルクティーを買い、私は温かい紅茶を選ぶ。「藤崎さん、昨日展示行きました?」 森下さんが何気なく聞いた。「行かなかった」「そうなんですね」「夕飯を作りたくて」 そう答えると、森下さんが少し目を丸くした。「夕飯を作りたくて展示に行かなかったんですか」「うん」「なんか、すごくいいです」「いいの?」「はい。藤崎さんの生活が、展示に勝った日ですね」 思わず笑ってしまった。「勝ち負けなの?」「気分的に」「昨日は茄子を買ったの」「茄子」「悠斗があまり好きじゃなかったから、前はあんまり買わなくて」 名前を出してから、少しだけ胸が痛んだ。 でも、言葉は止まらなかった。「でも昨日は、自分が食べたいなと思って買った」 森下さんは黙って聞いてくれていた。「味噌炒めにしたら少し焦げたけど、おいしかった」「それ、めちゃくちゃいい話です」「茄子が?」「茄子が、というより」 森下さんはミルクティーの缶を両手で持った。「藤崎さんが、自分の食べたいものをちゃんと優先したところが」 胸の奥が、静かに温かくなる。「写真、撮ったんですか?」「撮らなかった」「珍しいですね。最近、器とか花瓶とか撮ってたのに」「うん。誰かに見せる前に、自分で食べたかった」 言ってから、少し照れた。 森下さんは、ふわっと笑った。「それも、すごくいいです」「そう?」「はい。報告するための生活じゃなくて、藤崎さんが生きてる生活って感じがします」 その言葉に、私はしばらく返せなかった。 報告するための生活じゃない。
土曜日だった。 本当なら少し遅くまで寝ていたい日なのに、私はいつもの時間に目が覚めた。 隣を見る。 ベッドは空だった。 私はぼんやり身体を起こし、リビングへ向かう。 悠斗はソファでスマホを見ていた。 「あ、おはよ」 「おはよう」 カーテンの隙間から朝の光が差し
結局その日、私は一人でラーメンを食べて帰った。 本当はもっと洒落たものでも食べようと思っていた。 せっかく外食する気分だったし、少しくらい贅沢してもいいかなって。 でも店を探す気力がなくなってしまった。 駅前のラーメン屋に入り、カウンター席へ座る。「ご注文どうされますか?」「あ、醤油ラーメンで」 店員に答えながら、自分でも少し驚く。 私は本当は塩派だ。 でも悠斗が醤油好きだから、気づけば家でも醤油ばかり作るようになっていた。 私は箸を持ったまま、ぼんやり湯気を見つめる。 好きなもの。 最近、自分の『好き』がよく分からない。 ラーメンを食べ終えて店を出ると、夜風が少
翌日の朝、私は少し寝坊した。 目を覚ますと時計は七時十分を指している。「……やば」 慌てて起き上がる。 いつもならもう朝食を作り始めている時間だった。 私は急いでキッチンへ向かう。 でもそこには思っていた光景がなかった。 悠斗が一人でコーヒーを淹れていた。
写真を閉じたあとも胸のざわつきは消えなかった。 私はソファに座ったまま、ぼんやりスマホを握りしめる。 居酒屋の明るい照明。 楽しそうな笑い声が聞こえてきそうな写真。 その端に映っていた悠斗。 私の前で見せる顔とは少し違って見えた。 なんでだろう。 笑っていただけなのに。